2005年12月30日

English-私と英語1

カテゴリは作ったものの、全く記事を書いていなかった「English」。

何名かの方から、「書かないのですか?」と言うお便りを頂いていた。

最近はアメリカに住んでいながら英語を使う機会が少なく、私の英語力は全く向上していないのだが、向上心だけは持っている。

その日に覚えた新しい単語などを紹介するつもりなのだが、まずは私と英語について書きたい。


母の教えにより、私は小学校に入る前からABCだけは既に覚えていたのだが、これを繋げて使う事などは全く無く、中学生になって初めて英語の授業を受けた。

公立中学のときの英語の成績は中の上くらい。

進学校と呼ばれる都立の高校に入る事が出来たが、ここでは英語は下の上くらいまで落ちた。

正直、英語の授業は全く面白くなかった。

日本から出たことの無い日本人の先生の発音は眠くなり、やたらと難しい単語ばかり山のように覚えさせられ、正解は一つしかないと言う英作文の時間はどんなに頑張っても満点はもらえず、赤点を取ることもしばしばだった。

ただ、高校から聞き始めた洋楽の歌詞を覚え、意味を調べるのは好きだったし、ラジオでFENを流していたのも、今から思えば耳には良かったのかもしれない。

高校を出ると浪人生活が始まり、予備校にも通ったが、英語はさらに難しい物になって行った。

しかしこの頃から、これだけ難しい英語を覚えたところで、それを使いこなしている人に会ったことが無いという事実が私を悩ませた。

受験と言うシステムや、大学の意味、社会人になる為の勉強と言うより、学閥を得るために出来ている仕組みが段々理解できなくなっていった。

そこで日本の大学進学をやめて、アメリカへ渡る事になるのだが、この時には自分の英語の不完全さに対しては、特に何も感じてはいなかった。

私にとっては英語よりも人種や文化の違いのほうが怖く感じられたからだ。

しかしそれでも現地に行く前に少しでも多く生きた英語に接したいと言う気持ちで、渋谷にある英会話学校に通い始めた。

だがそこは「クイーンズ・イングリッシュ」つまりイギリス英語の学校で、アメリカの英語とは発音にかなり違いがあった。

中学高校で習っていたのがアメリカ英語だったのを知ったのはこの時だったが、英語に違いがあるのを知ったのもこの時だった。

結局ここに通った3ヶ月間で習った事は、その後あまり生かされることは無かったのだが、イギリス人の先生と仲良くなって、よく渋谷の町に飲みに行ったりしたことは、外国人慣れには役立った。

そして20歳で渡米。

最初にアダルトスクールのESLに1ヶ月ほど通った。

アダルトスクールとは文字通り大人の為の学校で、ESLとは外国人(ここではアメリカ人以外)向けの英語のクラスの事。

ここではその日から使えることを教ええくれた。

例えば「銀行にて」とか「ガスステーションにて」と言ったシチュエーション別に、想定される会話をいくつかのパターンで教えてくれて、表現の仕方や文化の違いなども身に付いた。

その後近所のカレッジの試験を受けると簡単に合格してしまい、そこでもESLのクラスを半年ほど取ったのだが、同時に始めたアルバイト先で仕事仲間から教わった英語がとても役に立った。

最初にしたバイトは倉庫での肉体労働で、あまり会話の必要ない仕事場だったが、それでもボスの言っている事を理解して仲間と協力する必要があるので、常に辞書を持ち歩き、わからないことは紙に書いてもらってすぐに調べた。

この時に持っていた辞書は日本で使っていたもので、高校で習った単語にはアンダーラインを引いていた。

仕事仲間にこれを見せると、「こんな単語は使ったことがない」とか「こんな難しい単語を覚えて使えるのか?」などとよく言われた。

逆に仲間から教わる単語はアンダーラインの引いていない、つまり日本の学校では教えてくれなかった言葉が多かった。

この頃から日本の英語教育がいかにいい加減で意味の無い物だったかと言うことを思い知らされていった。

一番感じたのは挨拶。

日本では「How are you?」と「How do you do?」位しか教わらなかったが、実際日本語でも挨拶は様々で、例えば友達同士で「こんにちは」とちゃんというケースがどれ程あるだろうか?

英語でも「元気?」とか「おう!」とか「調子はどう?」なんて言う会話はあり、コミュニケーションの第一歩を日本ではほとんど教えていなかった事にショックさえ受けた。

難しい単語を使うよりも、簡単だが意味の広い言葉を使い回す事の重要性も覚えた。

在米半年くらいでようやく耳が慣れてきて、相手の言っている事が聞き取れるようになり、私は学校を辞めて他の仕事を探し始めた。

無謀だったかもしれないが、生きた会話の中から学ぶ英語が一番身に付いていた。

そしてレストランで働くことになる。

日本食レストランだったが99パーセントの客はアメリカ人で、ウェイターとしては使ってくれず、フロント係としてメニューを持って客を席に案内することから始めた。

ここでも同僚のウェイター達から英語を教わり、半年後にはある程度日常会話を話せるようになった。

汚い言葉やエッチな言葉も教わったが、これは学校では教えてくれない言葉でありながら、生活上ではとても役に立った。

21歳になると店のアシスタントマネージャーになり、ウェイターの管理を任された。

この頃から英語で喧嘩をしたり、冗談を言ったりが出来る様になったが、必要に迫られての事だった。

やがてマネージャーに昇格し、当時LAで一番若い日本食レストランの店長として、英語を使っているなんて言う感覚無しに、しゃべりまくっていた。

しかしこの頃は今から思うとかなりいい加減な英語だったと思う。

時々日本語が混じったり、文法も逆さまだったりしたが、相手に通じさえすれば良いと言う考え方だった。

アメリカ人のガールフレンドが出来たりもしたが、同世代のアメリカ人が日本人より遥かにしっかりとした考え方を持っている事がわかってきたのも驚きだった。

ハリウッドを従えるLAでは、好きな音楽は聞きまくれた。

だが日本と違い、レコードを買っても歌詞カードが付いていることが少ないので、歌を聞き取って歌詞を書き出したりもした。

バスケットのLAレイカーズの試合も普通にテレビで見ることが出来たが、当然解説は英語。

映画もよく見たが、最初から字幕などないので、耳に神経を集中させていた。

こんな環境の中で過ごした2年間で、私の英語の基礎が出来上がったと思う。

posted by じゅにーK at 18:00| ホノルル ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | English | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月18日

English - 私と英語2

前回ようやく書いた英語に関する記事について様々なご意見を頂いたが、少し補足をしながら続けたい。

まず、最初にLAで肉体労働のバイトを始めた時、辞書やメモを持ち歩いていた事を「凄い」とか「立派」とか言うご意見もあったのだが、最初から考えてやっていた訳ではない。

何しろボスの言っている事がよくわからずに、荷物の山をこちらへ運んだら、ここではなくてあちらだったなんて言う事があり、英語がわからなかった罰をその場で与えられていた様な事があったので辞書やメモを持ち歩き始めたのだ。

また、カレッジに通っていた頃でも、マクドナルドでコーヒーを頼むと何故かコーラが出てくる事があった。

最初は向こうが間違えたのだろうと思ったのだが、それを言う英語力がない。

仕方なく翌日もう一度コーヒーを頼むとまたコーラが出てきた。

結局コーヒーの発音さえしっかり出来ていなかったのだが、何度目かにちゃんとコーヒーが出て来た時には、感動さえ覚えた。

失敗したり、恥を書いたりしながら、一つずつ覚えていくしかないと言う事を理解していったのである。

これは今でも一緒。

恥を恐れていては英語は上達しない。

逆に恥をかくと、一つ覚える。

日本の英語教育は意味が無いとも書いたが、文法に関してはどう教えようと一緒なので、英語の文章を理解していくにあたっては重要。

ちなみに私はいまだに高校の時の英文法の参考書を使っている。

S + V, S + V + O などの5文型は基礎なのだが、文章が長くなると節の区切り方がわからなくなってくる。

これは表現方法のテクニックの問題で、日本語でも色々な文章があるのと同様、英語にも書き手の個性がある。

日本で教えられたシェークスピアもこの一つに過ぎない筈なのだが、これを中学高校生に教える必要は全く無いと思う。

英語を言語学的、文学的な表現手段の一つとして捉える事は、大学生の専門研究的分野の話であると思うし、実用的な英語の理解を高めるには、古典や詩歌を混ぜるのはかえって混乱をもたらすとも思う。

何しろ中学高校と6年間も勉強してきた英語が全然使い物にならなかった事への驚きと落胆は予想以上だったが、アメリカに来て僅か半年ほどである程度ヒアリングが向上し、その後半年で自分の言いたい事が何とか表現できるようになったと言う事は、どう考えても日本の英語教育の意味の無さではないだろうか。

まあハワイと違って、一歩外に出れば英語しか使えない世界で、英語を話さないと仕事も買い物も出来ない環境は、日本ではなかなかありえないかもしれない。

倉庫のバイトをしていた時には、同僚から汚い言葉を随分教わった。

当時上映されていた、エディー・マーフィーの「ビバリーヒルズ・コップ」は、これがわからないと絶対に理解できない映画だった。

そして日本語には訳しようの無い言葉である事もわかった。

つまり英語を日本語に訳して理解するのではなく、英語をそのままニュアンスとして理解する事も身に付けていった。

私の友人には日本にいながら英語の勉強をして通訳までやっていた男がいるが、英語を理解すると言う事と、通訳をする技術はまた別のことで、私にはなかなか出来ない事だった。

いまだに英語で話している時と、日本語を話す時は、脳味噌の別の所を使っている気がする。

映画と言えば、当時は「ゴースト・バスターズ」や「ターミネーター」なども上映され、字幕無しに映画を見る楽しさも学んだ。

何しろ最初から無いのだから、役者の演技に集中する。

するとエキストラのような端の役者までが日本とはレベルが違い、細かいところはわからなくても、ちゃんとストーリーは理解する事が出来た。

勿論映画のジャンルにもよって、法廷物など専門用語の多いものや、ドラマで会話の多いものなどはなかなかストーリーを追えなかった。

また、ケーブルテレビがアメリカ中に蔓延して行った時期で、M-TVなどは時間さえあれば見ていた気がする。

レストランで働き始めて今度は丁寧な英語を覚えた。

英語には日本語のようにはっきりとした丁寧語や尊敬語があるわけではないが、丁寧な言い回しや相手を気遣った表現方法などがある。

ワイキキで買い物をしている日本人を見ると、ぶっきらぼうに単語だけを並べている人が多いが、ABCストアならまだしも、もう少しちゃんとした店でも同じ人がいる。

ABCストアで例えば「Beer?」と言えば、ビールの場所を教えてくれると思うが、もう少しちゃんとした文章にすれば「Where is the beer?」位になる。

さらに「Would you tell me where the beer is?」と言えれば、相手の反応もかなり違ってくるはず。

日本ではスパーマーケットでもどこの店でも客が何故かとても偉そうにしているが、物を売る人と買う人は基本的に同等で、その仲介をする人が店員なのである。

客にはビールはどこかと聞く権利と、店員にはそれを教える義務があるが、言葉遣いは個人の人柄を表し、ぶっきらぼうな人はそれなりの人にしか見られない。

相手が機械ならまだしも、レストランなどのサービス業の人間に対しては、それを受ける側もそれなりの敬意を払わなければいけないと思う。

サービスが悪かったと言う前に、自分の英語も見直して欲しいと思う。

言い方一つで相手も出方が変わるのは日本語同士でも同じではないだろうか。

日本の学校では難しい単語ばかり教えるが、決して難しい事ではなくちょっとした英語の使い方や言い回しで、ハワイやアメリカでの生活がグレードアップする事は間違いない。

勿論最後に「Thank you」は忘れずに。

物を教えてくれたり、袋に入れてくれたり、運んでくれただけでもこの一言は忘れないように。

さて、汚い言葉と丁寧な言葉を覚えると、ほとんどの場面での会話はその間にあり、成り立ってしまった。

まだまだ(今でも…)単語力は無かったが、ドアボーイからアシスタントマネージャーになって、ほぼ同い年のウェイター、ウェイトレスの管理を任されると、アメリカ人のいい加減さにはほとほと困らされてしまった。

この時初めてアメリカ人を上から見て、アメリカのいい加減さもわかってきた。

これは英語にも当てはまり、アメリカ人でさえも文法が違っていたり、単語の使い方やスペルさえも正確に知らないものが多い事に驚かされたが、同時に私はアメリカを舐め始めた。

こんないい加減な奴らが使っている言葉を、どうしてオレが話せないんだ?
と思うようになると、正確な英語と言う心がけより、意思の疎通のほうが大事になってきた。

実際働いていたレストランでは、メキシコからの出稼ぎ労働者を数人雇っていたのだが、彼らのほとんどは英語が話せなかった。

スペイン語の単語も覚えたが、相手がわかる英語だけで会話をしたり、相手に日本語を覚えさせた事もあった。

LAをはじめとするアメリカの特に南の州では、メキシコなど中南米系の出稼ぎ労働者が多く、ほとんどが不法入国者だったりもしたが、アメリカでありながら私よりも、と言うかほとんど全く英語を話せない人が大勢いる事にショックを受けた。

しかし皆それなりに生活をしている訳で、日本にいる外国人とは状況が大分違うなぁとも感じた。

エッチな言葉を教わったり、英語で喧嘩をしたり、冗談を言ったりと、英語の実践はどんどんバリエーションが増え、レストランの店長になると、英語だけで行われる支店長会議に出て発言をしたり、意見を言ったりと、レベルも上がっていったように思えた。

2年間に2つのレストランで店長を経験してしまったのだが、私は水商売がやりたくてアメリカに来た訳ではなく、深みに入ることを恐れて、また別の仕事の可能性を得るために手に職を付けたくて一度日本に帰国した。

20歳からの2年間でLAですっかりアメリカナイズドされていた私は、着る物もすっかりセンスが変わり、原宿の駅で友達と待ち合わせをしていたら次々と外国人から声をかけられた事があった。

皆私に道順や場所を尋ねるのだが、私も帰国直後だったし、知らない場所も多かった。

私が「悪いけどわからないよ」と答えると、「誰かわかる人はいないかなぁ?隣の人に聞いてみてくれないか?」と言われることがしばしばで、「それなら自分で聞いてみたら?」と言うと、「私は日本語がよくわからないんで聞いてくれないかな?」とか「彼は英語が通じるかな?」と言う。

ではなぜ同じように立っているだけの私が英語を話せると言う事がわかったのか聞いてみると、多くの日本人が外国人を見ただけで目を逸らしていたのに対して、ある程度外国人慣れしていた私はそう言う事がなかったという答えが多かった。

確かに私は、予備校時代に仲良くなった当時現役の東大生よりは英会話は出来たのだが、これが仕事にすぐに結びつくかと言うと、そうは甘くは無かった。

英語も使う仕事を探したが、2年の在米経験だけでは留学と変わらず、相手にもされなかった。

結局英語の学習教材のセールスなどをしばらくしたが、これではアメリカに戻っても役には立たないと考えて、バブルの始まっていた当時人気の高まっていたコンピュータ関係の会社に入った。

コンピュータのプログラミング言語は基本的に英語をベースとしていて、今までの英語のスキルは多少役に立ったが、その後アメリカ出張でプログラムをインストールしたりテストしたりと言う仕事が回ってきてから、数ヶ月単位で数人のチームを作ってアメリカに行き、通訳から車の運転など私の経験と知識が役に立った。

だが、日本でしばらく居ると、英語力はすぐに落ちるという事実も知った。

英会話学校には何の期待も持っていなかったので、外国人が多く出入りする六本木のディスコで遊んだり、外で外国人が困っているようだと進んで声をかけて助けてあげたりと、英語を使うチャンスは探していたが、周りが全て英語という環境に比べたら機会は少ない。

この、日本とアメリカを行ったり来たりと言う状態が4年半ほど続き、私の英語力はやや衰えて行ったのだが、ある程度のコンピュータの技術が身に付いたところで、本格的にアメリカ生活に戻る事にした。

勿論この技術を生かして仕事をするつもりだったのだが、何の伝も無く英語も中途半端な日本人がアメリカでコンピュータの世界に入ることは難しかった。

時は1991年、まだ「Y2K」問題が騒がれる前の事だった。

もう少し遅ければ、アメリカだけではなく世界中で猫の手も借りたい程のコンピュータ技術者不足になるのだが、結局この時私はコンピュータのスキルを生かすことは出来ず、流れるように生活の為にツアーの世界に入ってしまうのだった。

そしてこの後、「LA暴動」があり、ツアーの仕事はなくなり、食うや食わずの状態も経験した。

ホームレスが街に溢れ、英語どころではなくて、生きるのに必死だった時代。

20歳当時のLAで知り合う事の出来た日本人はほんの僅かで、色々と訳ありの人が多かったが、この頃になると留学生なども増えていて、多くの日本人にも助けられた。

アメリカ生活は英語が無ければ進めないが、英語だけで生活する必要も無く、多くの人種と移民によって構成されているこの国では、例えば日本人が限りなく日本人的に生活する事も可能なのである。

最初は一生懸命アメリカ人になろうとしていた私も、日本人としてのアイデンティティを感じて、英語を生活の為の道具として捉えるようになっていった。

自然に使う言葉が限られていって、英語力はまたしても停滞期を迎えてしまった。

そして運命に流されるまま、次はハワイに生活の場を探しに来てしまったのだ。

続く。
posted by じゅにーK at 18:19| ホノルル ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | English | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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