何名かの方から、「書かないのですか?」と言うお便りを頂いていた。
最近はアメリカに住んでいながら英語を使う機会が少なく、私の英語力は全く向上していないのだが、向上心だけは持っている。
その日に覚えた新しい単語などを紹介するつもりなのだが、まずは私と英語について書きたい。
母の教えにより、私は小学校に入る前からABCだけは既に覚えていたのだが、これを繋げて使う事などは全く無く、中学生になって初めて英語の授業を受けた。
公立中学のときの英語の成績は中の上くらい。
進学校と呼ばれる都立の高校に入る事が出来たが、ここでは英語は下の上くらいまで落ちた。
正直、英語の授業は全く面白くなかった。
日本から出たことの無い日本人の先生の発音は眠くなり、やたらと難しい単語ばかり山のように覚えさせられ、正解は一つしかないと言う英作文の時間はどんなに頑張っても満点はもらえず、赤点を取ることもしばしばだった。
ただ、高校から聞き始めた洋楽の歌詞を覚え、意味を調べるのは好きだったし、ラジオでFENを流していたのも、今から思えば耳には良かったのかもしれない。
高校を出ると浪人生活が始まり、予備校にも通ったが、英語はさらに難しい物になって行った。
しかしこの頃から、これだけ難しい英語を覚えたところで、それを使いこなしている人に会ったことが無いという事実が私を悩ませた。
受験と言うシステムや、大学の意味、社会人になる為の勉強と言うより、学閥を得るために出来ている仕組みが段々理解できなくなっていった。
そこで日本の大学進学をやめて、アメリカへ渡る事になるのだが、この時には自分の英語の不完全さに対しては、特に何も感じてはいなかった。
私にとっては英語よりも人種や文化の違いのほうが怖く感じられたからだ。
しかしそれでも現地に行く前に少しでも多く生きた英語に接したいと言う気持ちで、渋谷にある英会話学校に通い始めた。
だがそこは「クイーンズ・イングリッシュ」つまりイギリス英語の学校で、アメリカの英語とは発音にかなり違いがあった。
中学高校で習っていたのがアメリカ英語だったのを知ったのはこの時だったが、英語に違いがあるのを知ったのもこの時だった。
結局ここに通った3ヶ月間で習った事は、その後あまり生かされることは無かったのだが、イギリス人の先生と仲良くなって、よく渋谷の町に飲みに行ったりしたことは、外国人慣れには役立った。
そして20歳で渡米。
最初にアダルトスクールのESLに1ヶ月ほど通った。
アダルトスクールとは文字通り大人の為の学校で、ESLとは外国人(ここではアメリカ人以外)向けの英語のクラスの事。
ここではその日から使えることを教ええくれた。
例えば「銀行にて」とか「ガスステーションにて」と言ったシチュエーション別に、想定される会話をいくつかのパターンで教えてくれて、表現の仕方や文化の違いなども身に付いた。
その後近所のカレッジの試験を受けると簡単に合格してしまい、そこでもESLのクラスを半年ほど取ったのだが、同時に始めたアルバイト先で仕事仲間から教わった英語がとても役に立った。
最初にしたバイトは倉庫での肉体労働で、あまり会話の必要ない仕事場だったが、それでもボスの言っている事を理解して仲間と協力する必要があるので、常に辞書を持ち歩き、わからないことは紙に書いてもらってすぐに調べた。
この時に持っていた辞書は日本で使っていたもので、高校で習った単語にはアンダーラインを引いていた。
仕事仲間にこれを見せると、「こんな単語は使ったことがない」とか「こんな難しい単語を覚えて使えるのか?」などとよく言われた。
逆に仲間から教わる単語はアンダーラインの引いていない、つまり日本の学校では教えてくれなかった言葉が多かった。
この頃から日本の英語教育がいかにいい加減で意味の無い物だったかと言うことを思い知らされていった。
一番感じたのは挨拶。
日本では「How are you?」と「How do you do?」位しか教わらなかったが、実際日本語でも挨拶は様々で、例えば友達同士で「こんにちは」とちゃんというケースがどれ程あるだろうか?
英語でも「元気?」とか「おう!」とか「調子はどう?」なんて言う会話はあり、コミュニケーションの第一歩を日本ではほとんど教えていなかった事にショックさえ受けた。
難しい単語を使うよりも、簡単だが意味の広い言葉を使い回す事の重要性も覚えた。
在米半年くらいでようやく耳が慣れてきて、相手の言っている事が聞き取れるようになり、私は学校を辞めて他の仕事を探し始めた。
無謀だったかもしれないが、生きた会話の中から学ぶ英語が一番身に付いていた。
そしてレストランで働くことになる。
日本食レストランだったが99パーセントの客はアメリカ人で、ウェイターとしては使ってくれず、フロント係としてメニューを持って客を席に案内することから始めた。
ここでも同僚のウェイター達から英語を教わり、半年後にはある程度日常会話を話せるようになった。
汚い言葉やエッチな言葉も教わったが、これは学校では教えてくれない言葉でありながら、生活上ではとても役に立った。
21歳になると店のアシスタントマネージャーになり、ウェイターの管理を任された。
この頃から英語で喧嘩をしたり、冗談を言ったりが出来る様になったが、必要に迫られての事だった。
やがてマネージャーに昇格し、当時LAで一番若い日本食レストランの店長として、英語を使っているなんて言う感覚無しに、しゃべりまくっていた。
しかしこの頃は今から思うとかなりいい加減な英語だったと思う。
時々日本語が混じったり、文法も逆さまだったりしたが、相手に通じさえすれば良いと言う考え方だった。
アメリカ人のガールフレンドが出来たりもしたが、同世代のアメリカ人が日本人より遥かにしっかりとした考え方を持っている事がわかってきたのも驚きだった。
ハリウッドを従えるLAでは、好きな音楽は聞きまくれた。
だが日本と違い、レコードを買っても歌詞カードが付いていることが少ないので、歌を聞き取って歌詞を書き出したりもした。
バスケットのLAレイカーズの試合も普通にテレビで見ることが出来たが、当然解説は英語。
映画もよく見たが、最初から字幕などないので、耳に神経を集中させていた。
こんな環境の中で過ごした2年間で、私の英語の基礎が出来上がったと思う。