9年前には市民権も取得して、パスポートはアメリカ。
日本に帰ると「帰国」では無く、「上陸許可」と言うスタンプが押される。
1984年、最初にLAに渡った20歳の時のアメリカは、何でも大きくて、やる気を出せばチャンスのある場所、自由で見栄を持たずお互いを認め合うと言う、良い印象が大きかった。
特にLAは、中学時代からの憧れのレイカースの本拠地でもあり、高校時代からはまっていた洋楽の聖地でもあった。
からっとした地中海性気候のLAは夏場は雲さえ出来る事が少なく、町の緑は多く、ちゃんと管理されていた。
そんなところにアメリカ人は大都市を作って、10車線以上もあるフリーウェイは毎日ぎっしりと渋滞していた。
だが人口密度は東京のそれと比べると遥かに低く、大きな体のアメリカ人でが余裕を持って生活できるように、家も街も設計されていた。
おりしも1984年はLAでオリンピックが開かれ、家の近所を聖火ランナーが走るなど、活気に溢れた雰囲気にも触れることが出来た。
しかし山下の柔道も見れない現状を知り、ここは日本ではないのだと痛感した。
次第にアメリカナイズドされ、ある物はアメリカ流に、ある物は日本の流儀のまま生活するようになる。
この国が日本と大きく違うところは、多民族国家であるということだ。
多くの国からの移民者がいて、その2世3世がいる。
既に見た目では判断できない社会で、英語だけが共通語となる。
多くの国の人たちと友達になった。
英語は道具だった。
アメリカの生活に慣れてくると、いつの間にかレストランの店長になっていたりしたが、自分の限界も見えてきた。
何しろ日本にいてそのまま大学に行っていたらどうなっていたか、と言う事に限界を感じて日本を出たのである。
いずれにせよまだ20代前半である。
ここから日本とアメリカを往復しながら、どこに住むのかも迷いながら、コンピュータの仕事をしたり、ツアーの仕事をしたりして20代を過ごした。
アメリカはこの間に湾岸戦争をして、私もぎりぎり徴用される可能性の残る年齢を過ごした。
結局アメリカで生活したいとは思ったが、それはアメリカが好きと言う理由よりも、日本での生活に不便さを感じていたからだと思う。
188センチと、日本ではちょっと規格外サイズの私はどこに行っても頭をぶつけ、腰を痛めていた。
電車に乗る時は勿論、家の中でさえ窮屈な思いをしていたし、洋服や靴は全て高くついた。
英語は話さなくてはならないが、アメリカでは普通の人としての生活が出来た。
しかし最初に見た時から10年後のLAはすっかり荒れ果て、ホームレスと犯罪の町と化していた。
暴動があり、天災も続き、私はLAを諦めハワイに移った。
すると離れ小島のハワイでは、人々がアメリカの事を随分客観的に見ていることに気付いた。
その後、大好きだったアメリカはどんどん私を裏切っていく。
日系アメリカ人として、アメリカについてこれから色々語って行きたい。